最高気温摂氏46度。モンスーンの到来を待ちわびる、6月下旬、酷暑のデリーから、わずか1時間のフライトで到着したヒマラヤ山中、標高3500メートルのレー。あいにくの曇り空の下、殺風景な禿げ山の谷間に開けた空港にTシャツ一枚で降り立ったとたん、張りつめた早朝の冷気に震え上がった。
北インド、ヒマラヤ連山の最奥部がラダックと呼ばれる地域だ。チベット高原の西の果てに位置する熱烈な仏教信仰の地で、小チベットとも呼ばれてきた。峰々によってインド平原とは幾重にも遮られているためにモンスーンの雨はまったく届かず、乾ききった山肌は、天空の砂漠とでも譬えるべき荒涼たる眺めである。鉱物剥き出しの急峻な山峡地帯であるが、谷沿いには雪どけの水で灌漑した豊かな緑地が点在しており、まさに砂漠のオアシスに匹敵する眺めである。村々は、標高3000〜4500メートルあたりに点在している。
周りにそそり立つ5000メートル以上の高峰には万年雪が蓄えられており、気温が上がる夏に大量に溶けて豊かな流れとなる。ラダックの山峡を、チベットのカイラス山系から発したインダス川が貫いており、ラダック東部のチベット高原ではごく慎ましやかな澄みきった流れであったのが、無数の支流と次々に合流しながら200キロほど下ったあたりでは、雪どけの灰色の流れを集めた桁違いの激流となる。川の水位は、気温の高くなる午後にとけた水が本流に流れ込んでくる、夕刻近くにもっとも高くなる。
チベット同様、冬が長く、厳冬期には氷点下30度にも達するラダックが、一挙に華やぐのは夏の3ヶ月ほどだ。昼間には汗ばむほどの、高地特有の透明な日射しが燦々と降り注ぐなか、花々が咲きほこり、色づいた大麦が涼風に揺れる山峡の村々には、小鳥たちのさえずりが響きわたり、さながら西方浄土の趣である。集落にはスラリと伸びたポプラがあちこちに植えられているが、爽やかな風に乗っておびただしい量のポプラの綿毛が、澄み渡った青空を、あたかも夏の吹雪のように軽やかに漂ってゆくさまは、独特の風情である。
ラダックとは、チベット語で「峠越え」の意味である。剥き出しの峰々に囲まれたラダックでは、どの方角に向かうにせよ、険しい峠越えの道を行かねばならない。なかでもレーから北部のヌブラ谷方面に行くには、標高5602メートルという、自動車道路世界最高所の峠を越えなくてはならない。ラダックが人口まばらな僻地であるにもかかわらず、道路ばかりが縦横に発達しているのは、ラダックの属するジャンムー・カシミール州がインド独立以来の終わりのない紛争地帯であり、おびただしい軍隊を張りつけているからだ。パキスタンとは、カシミールの帰属を巡って今だ戦争状態にあり、ラダック西部の山岳をはさんでしばしば砲弾が飛び交っている。また北部と東部では、インドと中国が主張する国境線はともに相手側深く食い込んでおり、1962年以後戦闘はないものの、やはり停戦ラインをはさんで対峙している。そのため街道沿いの要所には基地があって常に軍用車が動いてはいるが、対照的に、敬虔な仏教徒たちが暮らす山里の佇まいはどこまでも伸びやかで落ち着いている。
そして観光が唯一の産業であるラダックでは、許可申請さえすれば、情勢が安定している限り、中国との国境線近くまでも立ち入ることができる。私もそのルートを走ってみたが、意外だったのは、レーからレンタルバイクを連ねた、ヨーロッパ人ライダーたちとあちこちで出会った。またラダック全域ではトレッキングツアーも盛んで、フランス人がとくに多かった。長い休暇が取れない日本ではほとんど普及していないが、旅行に対する成熟度の違いを見せつけられる思いだった。
ラダックが小チベットと呼ばれていることは冒頭でも触れたが、私がこの地を訪れた目的は、伝統的に受け継がれてきたラダックのチベット仏教をじっくり見てみたいと思ったからだ。ダライ・ラマによって統治されてきたチベットが、1949年以来中国の支配下に置かれ、さまざまな問題を抱えながら現在に至っていることは承知の通りだ。
一方のラダックは、宗教の多様性を認めた、仏教発祥の地でもあるインド領に帰属したことで、何ら制約を受けることなく、伝統的な仏教信仰が連綿と受け継がれてきた。さらにインドでの仏教信仰を飛躍的に高める要因となったのは、他でもない。ダライ・ラマとともにチベットから亡命してきた多くの高僧たちが、インドやヒマラヤ一円に安住の地を見つけて熱心な布教をはじめたことによる。私もラダック滞在中に、チベット仏教の活力を見せつけられるイベントに遭遇した。
それは、600人の僧尼を率いて行われた、ドゥク派最高位の活仏、ドゥプチェン・リンポチェによるヒマラヤ平和大行進であった。42日間をかけて、5000メートルを越す峠をいくつも越えて400キロ以上を踏査するトレッキングで、300頭の馬と大勢の世話役ボランティアとともに、行く先々で村人たちと交流する大規模なものである。42歳になるドゥプチェン・リンポチェは、ネパールのカトマンドゥーを本拠としているが、彼の先代は、言うまでもなくチベットからの亡命者である。
平和大行進の最終日に当たる42日目の早朝、ラダックの名刹、ヘミス僧院に到着する一行の歓迎式典を観た。長大な列をなして山道を下ってくる僧尼たちが唱える「オン・マニ・ペメ・フム」の祈りの声が、地鳴りのように高まってくるなか、日焼けした顔をほころばせながら近づいてくるドゥプチェン・リンポチェを、合掌して迎える信者たちの眼には、歓喜の涙が光っていた。僧尼の一行のなかには、ヨーロッパや東南アジアからの参加者も多く、チベット仏教の並々ならぬ浸透力を、ラダックまで来て再認識させられる思いだった。
ラダックには主要な僧院が50カ所ほどある。いずれも町や村を見下ろす高台や山の斜面に、大きな要塞を思わせる佇まいで聳えている。それらの多くは14〜15世紀前後に建造され現在に受け継がれているもので、チベットでは失われてしまった仏教美術の宝庫でもある。なかでも11世紀頃の建造と伝えられるラダック最古の僧院、アルチ・チョスコルには、金剛界マンダラをはじめとしておびただしい数の壁画や仏像が、鮮やかな色彩を保った状態で残されている。ただ残念なことに、これら国宝級の仏教美術は、3年ほど前から写真撮影は全面禁止されている。
ラダックでは僧侶たちも優しい。ここでは、民衆と僧院のあいだに培われてきた信仰の絆を揺るがすような政治的な干渉など、一切起こってはいない。以前はどの家でも5〜6人以上の子どもたちがいて、そのうちの1人や2人を僧院に預けるのが伝統的な習慣であったが、最近は少子化の影響で、僧侶の数は以前の半数ほどに減っているという。
チベットやブータンを旅してきた私にとって意外だったのは、ここラダックの人々がベジタリアンだったことだ。チベット仏教圏は野菜があまり育たない極限高地であるために、とくにチベットでは、かろうじて芽生える高原の牧草を家畜が餌とする食物連鎖のなかで、肉食が普通に行われている。一方ラダックでは、レーにある観光客向けのレストランや、西部のイスラーム教徒地域を除いて、地方の町のレストランでも肉料理というものはまったくなかった。レストランで出るのは、ナン、豆、焼きそば、肉の入らないチベット餃子のモモ、チーズ入りカレーといったところだ。輪廻転生を心から信じ、虫や家畜も前世は人間であったかも知れないとする信仰から芽生えた、生命の平等意識が徹底しているのだ。だが野菜が欠乏する冬の時期に限って、ラダックでもやむを得ず、ヤクや羊の肉を食べるとのことだった。
ガイド兼ドライバーとして1カ月近くつきあってくれたタシは、じつに信仰深い男で、僧院で仏像の前に立つ度に、観ていて惚れ惚れする流れるような動作で、五体投地の祈りを捧げていた。走行中に路上で小鳥や犬が遊んでいれば、クラクションを鳴らしながら徐行し、それでも逃げない横着な生きものがいると、車を停止させたこともあった。蝿すら殺したこともなく、不殺生に徹して暮らしているタシであったが、一緒に肉料理を食べに行くと、「デリシャス!」と目を細め満足げだった。
こんなこともあった。3日間走りに走って、ラダック最奥地ザンスカールのパドゥムにようやく到着した夜のこと、寝付いてすぐ激しい痒みを感じて私は跳び起きた。懐中電灯を照らして枕をどけてみると、何匹もの家ダニが這っているのを見つけ鳥肌立った。ホテルの主人を呼びつけて抗議し、爪で擦るようにして一匹を潰したところ、主人は愁いを帯びた表情になり、ダニを3匹ほど摘みあげ窓の外にぱらぱらと逃がしたのだった。その様子を見ながら、ダニごときに怒りを呼び覚まされた自分に恥じ入る思いだった。
人それぞれに、出会いを求めて旅に出る。厳しい気候のために、旅行シーズンが夏の3〜4カ月間に限られるラダックでは、資本を投下したデラックスなホテルもなく、どこに行ってもおおむね質素で、レー以外では滅多に酒もなかった。村人たちと変わらぬ質素な食事に慣れ、シャングリラを絵に描いたような佇まいの山里に抱かれていると、人は癒され、心の贅肉をそぎ落として、優しくなれるものだということを、しみじみ味わえた旅でもあった。